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【 継体天皇 】 「継体天皇石像」 足羽山より三国(日本海)を望み、現代でも福井の平和と発展を見守っている石像(約5m)は福井特産「越前青石」(笏谷石)で出来ています。
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「末永く此の国の守神に成らん」 継体天皇は応神天皇五世皇孫で、近江国高嶋郷三尾野という所でお生まれになり、御名を男大迹王(おおとのみこ)といわれました。 御父は彦主人王(ひこうしのきみ)御母は振姫(ふりひめ)といわれ越前国坂中井の娘でした。 男大迹王が3歳の時、御父が亡くなられたので、御母に従い越の国に戻り高向(たかむく、現・丸岡町高椋)でお育ちになり、御容姿は威風堂々として大変徳の高い御方に成長されました。 その頃の越前の国は沼地同然で、人が住むには限られた土地しかない国でしたので、男大迹王は大変心を痛められ、足羽山に土地をト(ぼく)して御社殿(現足羽神社)を建て、宮中守護の大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀って神前に安全を祈願して治水を始めます。 地の理を調べて現在の九頭竜・足羽・日野の三大川を整備せられ、三国に水門(みなと)を開き諸水を海に流されて越前平野が出来ました。これが福井の大治水伝説になっています。 これにより、農業が盛んになったばかりでなく川を利用して舟で荷を運べるようになりました。また、道を作り人々の住居を定め、耕種、養蚕、採石、製紙、その他諸産業興隆の道を教えられ、田畑が開け、五穀も良く実り、海川交易も栄えて、人家繁栄の土地となり、天皇は昔より越前開闢(えちぜんかいびゃく)の御祖神(みおやがみ)と称え崇め尊ばれてきました。 時同じ頃、第25代武烈天皇(ぶれつてんのう)が崩御(ほうぎょ)され、皇統を継ぐ御方が居られなかったので、諸大臣が相談し大連大伴金村等が鳳駕(天皇の乗り物)を備えて、幾度となく男大迹王を高向郷に御迎えに参りました。 時に御年58歳、遂にその願いを受け入れられ、河内国樟葉宮(くすはのみや)にて第26代天皇に御即位されました。 この時、男大迹王は越の国を離れるに当たり、長年過ごしたこの地を慕い、また後に残す人々のことを思うあまりに、「末永く此の国の守神に成らん」と、自らの御生霊(みいきみたま)を此の宮に鎮め、御子・馬來田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主として後を託されました。 皇女は天皇の御霊を中央に祀り、大宮地之霊を左右に配祀し、阿須波(あすは)の神名により、足羽宮(あすわのみや)と称え奉ることになさいました。 現在の福井、足羽等の地名も御神名により名付けられる事になります。 天皇の即位当時、天下万民は泰平に慣れ遊惰(ゆうだ)に流されていたので、先ず初めに「勧業之詔(かんぎょうのみことのり)」を発して、農耕・養蚕を勧め贅沢を戒めました。 次に内政を整え、筑紫国造磐井(いわい)の反乱を治め、国外に於いては任那(みまな)を助け三韓跋扈(ばっこ)を防ぐことに勤めました。これらが御在位25年間の御事績です。 天皇は御年82歳で山城国余玉穂宮(いわれたまほのみや)にて崩御され、摂津国藍野陵(あいののみささぎ)に葬り奉られました。 |
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足羽神社社務所 0776-36-0287 http://www.asuwajinja.jp/ |
(石像原画)