兼務神社 社北地区 (令和6年現在) 福井市の南西に位置する市街地と近郊農村地区で、東に足羽山を背し、北に足羽川、西に日野川、南に福井運動公園、市立みどり図書館などに囲まれている。この地は東大寺荘園、足羽神社神田の古の時代より史跡が多く、歴史の宝庫といわれている。 本地区はここ10年間で宅地化が一段と進み、現在数は約3.580戸、8.400人である。 |
熊野神社 鎮座地:福井市加茂河原町32-7![]() 事解男神 例 祭 5月5日 神 紋 左三つ巴 境 内 地 3,196.69u 旧 社 格 村社 主要建物 本殿 木造 瓦葺 神明造 拝殿 木造 瓦葺 神明造 境内神社 八幡神社 矢筈宮 弓筈神社 氏 子 220戸 「由 緒」 一、社伝によると、熊野神社の祭神は、朝倉義景の守護神でだった。天正元年(1573)織田信長との戦に敗れた時、川に流したのを加茂河原の住人・宮崎茂左ェ門が夢のお告げで、笏谷の赤岩前の渕より拾いあげ、この地に祀ったと伝えられている。 一、社伝によると、道祖神は、熊野神社外苑にある神木の大楠の下にあったと記された(慶長11年(1606)越前国絵図)ものを、明治35年熊野神社の社殿を改築したときに合祀したという。 一、社伝によると、八幡神社は東郷城主長谷川秀一(「越前国名蹟考」より)の鎮守だったと伝えており、加茂河原中垣内に鎮座されていたのを、この地に遷して若宮と呼ばれていた。 一、社伝によると、矢筈の宮は、約千五百有余年前、男大迹皇子が越前平野の治水のため、河川改修に多くの笏谷石を使用されたので、石の採掘加工等で生計のできる喜びのお礼に、石工等によって皇子をお祀りしたもので、元明神山にあったことから明神さんと呼ばれ、昔は水の流れ先の三国水門を望んで鎮座しておられたという。 一、社伝によると、弓筈神社は、足羽神社の摂社で「足羽社記略」によれば、男大迹皇子が越前の国において九頭竜、日野、足羽の三大河川を掘られたとき、炎暑のため役夫が水を乞うたので、皇子は水神に誓って携え給う御弓の筈にて巌を撞かれたところ、即時に冷泉を得て役夫等はこの水を飲み暑さを凌ぐことができた。そこを笏谷というと伝える。更に継体天皇は、自ら水波能売神を勧請し給いその鎮座の地を加茂山(鳥越坂)という。 |
日野神社 鎮座地:福井市若杉町66-18-1![]() 檜隈高田皇子 例 祭 5月5日 境 内 地 3,115.2u 旧 社 格 村社 主要建物 本殿 鉄筋コンクリート造 銅版葺 神明造 拝殿 鉄筋コンクリート造 銅版葺 入母屋造 氏 子 180戸 「由 緒」 社伝に「継体天皇の臣某が若杉村に居を定め薬師の神を祀る。」という。その子孫大河主膳頭を名乗り足羽神社の禰宜を勤め、足羽神社の神田地であった社の郷の祭祀権を保持した。 源頼朝の家臣であった林信広の心願があって越前小健山〔日野山)の神を移し祀り後、日之宮神社と称したという。その後、足利氏の家臣・笈田高春が経津主命を勧請し大将軍と称したという。 大正年間に三社合祀し、現在の地に日野神社と称し祀った。 |
足羽神社 鎮座地:福井市東下野町8-65![]() 伊弉册尊 少彦名命 大名己貴命 例 祭 5月5日 境 内 地 7,838u 旧 社 格 村社 主要建物 本殿 木造 瓦葺 神明造 拝殿 鉄筋コンクリート造 銅版葺 入母屋造 境内神社 白山神社 氏 子 42戸 「由 緒」 創立年月不詳。 社伝によると、継体天皇が潜龍の時、九頭竜川の流れを安居山麓から坂井港に注ぐという治水工事を御計画になり、この際この下野で御休憩をされたという。その古伝によって、その御功績と御神徳を仰いで足羽神社の御分霊を奉祀したという。 |
白山神社 鎮座地:福井市西下野町8-24![]() 例 祭 4月10日 境 内 地 2,261u 旧 社 格 村社 主要建物 本殿 木造 瓦葺 流造 拝殿 木造 瓦葺 流造 氏 子 23戸 「由 緒」 社伝によると、往古は伊弉册尊を祭神としたが、この川上(旧清水尻村堂ノ前)の伊弉諾尊を祀る社が、水害によって流され、神像も西下野の河端に達したという。その時この神像が竈馬虫(かまどうま:コオロギ)数万匹によって守られていたため、村人がこれを白山神社に奉祀したという。 後にこの淵を、「コオロギ淵」と言ったと伝えている。 |
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